ドラゴンの炎、1893の横断幕、観客同士の喧嘩。オ・クラシコで僕はFCポルトにハマり、ソシオになった
ポルト対ベンフィカ、3-1。控えめに言って最高だった。モウリーニョが欧州を制し、中島翔哉が背負ったクラブ。選手入場の炎の演出、レッドカード、アウェイ席近くの乱闘、VIP席から見たラウンジ。この夜を境にポルトのファンになり、ソシオになった。このスタジアムに通うためにポルトに引っ越してもいい、と本気で思っている。

- スタジアム
- エスタディオ・ド・ドラゴン(ポルト、ポルトガル)
- 観客数
- 49,560人(収容率99%)
- 熱狂度
- ★★★★★
ポルトガルで一番大きな試合
ポルトガルには「オ・クラシコ」と呼ばれる試合がある。ベンフィカ対ポルト。リスボンとポルト、南と北、この国の二つの都市の対決だ。
9月20日、日曜の20時30分。会場はポルトのエスタディオ・ド・ドラゴン。この夏に観た試合の中で、僕が一番楽しみにしていた試合だった。
オリャオンからポルトまでは、車なら6時間、飛行機ならファロから1時間強。
今回は飛行機。土曜の朝にファロからポルトへ飛んで、クラウンプラザ・ポルトに2泊した。宿を押さえたのは8月28日の21時49分。チケットを買ってから、ちょうど30分後だ。
チケットは8月28日の夜、FCポルトの公式チケットサイト(bilhetes.fcporto.pt)で買った。「大人買いの夜」の4枚目。非会員は、まずFCポルトのアカウントを作って、メール認証をして、個人データの確認をして、それからやっと購入画面に進める。20時50分にアカウント作成、20時55分にメール認証、21時11分にチケット購入。20分の手続きだった。クラシコは会員優先枠が大きいので、一般枠で買えたのは運が良かった。
席は東スタンド(バンカーダ・ナセンテ)の「ブロンズ2」、11ブロック、30列。一般席は完売していて、残っていたのはVIP(ホスピタリティ)枠だけだった。300〜500ユーロくらいだったと思う(購入メールに金額が残っていないので、記憶で書いている)。ベルナベウの433ユーロに続いて、2回目の「VIPしか残っていなかった」だ。
VIP席がどんなものかというと、試合前に青い照明のラウンジに入れる。カウンターでビールとつまみが出て、テレビで他会場の試合が流れていて、青と白の縦縞を着た人たちがハイチェアに座って喋っている。写真と動画を下に載せておく。東スタンドのホスピタリティは2026-27から「Platinum/Silver/Bronze Club/Bronze」の4区分になっていて、84のボックス席は今季すでに完売。7月からは「Premium Experiences」として試合単位でも一般に売るようになった。ハマると高くつくクラブだ。当日はウォレットに「アクセスカード」を入れて、ゲートでスキャンして入る。
ついでに白状しておくと、この試合の前に、FCポルトのオンラインストアで、韓国代表のファン・インボムのサイン入りユニフォーム(300ユーロ)と、今季のホームのユニフォーム(130ユーロ)を買ってしまった。ポルトのファンだから、ではない。ポルトガルに住んでいる僕にとって、ポルトのクラシコに自分の「持ち物」を持って行きたかったからだ。これは合理的な判断ではない。でもサッカーは合理性でやるものではない。
2003年、16歳のメッシがデビューした場所
エスタディオ・ド・ドラゴンは2003年11月16日に開場した。こけら落としはポルト対バルセロナの親善試合で、2-0。この試合で、バルセロナ側に16歳のリオネル・メッシが出場している。トップチームでの初出場だった。
設計はマヌエル・サルガード。建設費1億2,500万ユーロ。収容人数50,033人。UEFAのカテゴリー4。旧アンタス・スタジアムのすぐ隣に建てられ、外壁には21,000平方メートルのアズレージョ(装飾タイル)が使われている。
このスタジアムは、ヨーロッパの大きな試合をいくつも見てきた。2004年、ユーロの開幕戦はここで行われた。ポルトガル対ギリシャ、1-2。観客48,761人。この大会でギリシャが優勝することを、その時点で誰も知らなかった。
2021年5月29日にはチャンピオンズリーグ決勝、マンチェスター・シティ対チェルシー(0-1、ハヴァーツ)。コロナ禍でイスタンブールから会場が移り、観客は14,110人だった。
モウリーニョと中島翔哉のクラブ
日本の人にとって、FCポルトはたぶん「中島翔哉がいたクラブ」だ。2019年7月、ポルトは中島をアル・ドゥハイルから1,200万ユーロで獲得し、5年契約を結んだ。1年目はリーグとカップの2冠。公式戦37試合1得点という数字は寂しいけれど、日本人がポルトの青と白を着て、ドラゴンのピッチに立った。その中島が、いま2部のポルティモネンセに戻ってきている話は、別の記事に書いた。
そして、ポルトガル人にとってこのクラブは、ジョゼ・モウリーニョのクラブだ。
2002年1月、38歳のモウリーニョがポルトの監督になった。翌2003年5月、セビージャでのUEFAカップ決勝でセルティックに延長3-2。2004年5月26日、ゲルゼンキルヘンのチャンピオンズリーグ決勝でモナコに3-0。ポルトガルのクラブがヨーロッパの頂点に立った。その途中、2004年3月のオールド・トラッフォードで、終盤の同点ゴールの瞬間にモウリーニョがタッチラインを両腕を上げて走った場面は、いまもサッカーファンなら誰でも知っている。本人があとで「あの疾走のあとで、人生が変わった」と言っている。
そこからチェルシー、インテルの3冠、レアル・マドリード、ローマ。2015年にはポルトガルサッカー連盟から「世紀のポルトガル人監督」に選ばれた。そして2026年6月、モウリーニョはレアル・マドリードの監督に戻ってきた。僕が8月にベルナベウで観た4-0は、その復帰3戦目だった。ポルトガルの田舎の街に住んでいると、モウリーニョの名前はサッカーの話というより、「うちの国から世界に出た人」の話として出てくる。ポルトはその出発点だ。
「ドラゴンたち」の歌
FCポルトの愛称は「ドラゴンイス(ドラゴンたち)」「アズイス・イ・ブランコス(青と白)」。クラブの歌は1922年、ヘイトル・カンポス・モンテイロの詞、アントニオ・フィゲイレド・イ・メロの曲。
ゴール裏の南スタンド(トポ・スル)には、二つのウルトラス組織がいる。1986年11月30日創設の「スーペル・ドラゴンイス」と、1995年7月6日創設の「コレクティーヴォ・ウルトラス95」。2020年の報道では、南スタンドの約5,100席のうち、スーペル・ドラゴンイスが約4,600席、コレクティーヴォが500席を使っていた。クラブは南スタンド上段を「特別な入場・滞在条件のあるゾーン」に指定し、7・8・9番ゲートから入る仕組みにしている。
試合:レッドカード、ベンチの乱闘、そしてボックス席の喧嘩
観客49,560人。収容率99.05%。ほぼ満員。
試合前、ゴール裏に巨大な横断幕が広がった。「1893 SUPREMACIA」。1893はクラブの創設年、supremaciaは支配。ポルトのサポーターが、この試合をどう位置づけているか、一語で分かる。
そして選手入場。ピッチの両脇から炎が吹き上がった。火柱が何本も立って、熱がスタンドまで届く。スタジアム全体で青い旗が振られて、南スタンドからは発煙筒の赤い光と煙。ヴィラス=ボアス会長になってから入場時の演出に力を入れていると聞いていたが、これはもう「サッカーの試合」ではなく「ショー」だった。ベルナベウの演出が「劇場」なら、ドラゴンのそれは「祭り」の火だ。エンターテインメントとして、めちゃくちゃ面白い。
10分、ポルトのガブリ・ヴェイガに警告。25分、ベンフィカのレングレに警告。そして31分、ガブリ・ヴェイガが先制ゴール。ドラゴンが爆発した。
35分、レングレがアンドレ・シウバの顔に手を出して2枚目の警告、退場。ベンフィカは前半のうちに10人になった。クラシコの歴史で、ベンフィカの選手が最も早く退場した試合だという。その直後、両チームのベンチ前で選手とスタッフが入り乱れる乱闘騒ぎ。ベンフィカのアシスタントコーチ、リカルド・ロシャと、ポルトのチームマネージャー、ルイ・コレイアが揃って退席処分になった。翌日、ポルトは「ベンフィカのベンチの振る舞い」の映像を公式に公開し、ベンフィカは「ごく普通のこと」という皮肉なタイトルで判定8場面の動画を出して応酬している。試合が終わっても、まだ試合をしている。
後半51分、ベンフィカのバーが同点ゴール。10人でも諦めない。ドラゴンが一瞬、静かになった。
でもそこからはポルトだった。54分、フロホルト。60分、ファン・インボム。3-1。フロホルトはこの試合、パス14本中14本を成功させ、今節のリーグMVPに選ばれた。
主審はミゲル・ノゲイラ、VARはルイス・フェレイラ。監督はポルトがフランチェスコ・ファリオーリ、ベンフィカがマルコ・シウバ。
ポルトはこれで開幕7連勝、勝ち点21。2位のベンフィカに5点差、スポルティングに6点差をつけた。ベンフィカは今季リーグ初黒星。
この試合ではサムーが約7か月ぶりに実戦復帰し、ピエトゥシェフスキも戻ってきた。ポルトの公式サイトは「特別な夜だった」と書いている。
東スタンド、30列。上段の中ほどで、ピッチ全体と、反対側の南スタンドのウルトラスが正面に見える。座席は青。スタジアムに入って最初に見たのは、南スタンドがすでに立っていて、キックオフの40分前から歌っているところだった。
31分、ガブリ・ヴェイガのゴールが入ったときの音は、僕の人生で聴いた中で一番大きかった。音というより、圧力だった。隣の男性が僕を抱きしめて、その隣の男性も抱きしめてきて、3人で跳ねた。誰が誰なのか、もう分からない。そして35分、レングレが退場になった瞬間、僕の周りは全員がもう一度立ち上がった。ゴールではない。相手の退場だ。それでもスタジアムが揺れた。
そして後半、僕がいた東スタンドで、観客同士の喧嘩が始まった。
ボックス席の区画に、ベンフィカの同点ゴール(51分)を祝った人たちがいた。ホームのスタンドで、だ。周りのポルトのサポーターがそれに反応して、フロホルトが2-1にした瞬間、仕切りのバリアを越えようとした。ペットボトルが飛び、警察(PSP)が入ってきて、ようやく収まった。僕の席から、その一部始終が見えた。ベンフィカのゴールを祝った側には、小さな子どもを連れた家族もいたという(当事者のSNSでの証言なので、僕には確認できない)。
ピッチの上でも、終盤にサムーがベンフィカのバーに手を出して両軍が入り乱れ、アディショナルタイムにはガブリ・ヴェイガがベンフィカのベンチの方向にボトルを投げた。試合後にはルイ・コスタ会長が「懲戒基準の甚だしい二重性」と審判を批判して、翌日のサッカー協会のガラを欠席し、9月23日にはベンフィカが懲戒委員会に申立てをして、ドラゴンのスタジアム使用禁止まで要求している。
選手も、コーチも、会長も、観客も、全員が喧嘩をしている。これをどう受け止めるかで、その人のサッカー観が分かると思う。僕は、控えめに言って最高だった。マジで、プライドとプライドの戦いだった。
ポルトの2点目が入ったとき、僕の前の列の少年(たぶん8歳くらい)が、父親の肩の上に乗って、両手を空に伸ばして叫んでいた。父親はその足を握って、自分も叫んでいた。あの少年は、40年後もこのスタジアムに来ていると思う。そしてそのとき、彼の肩の上には、たぶん自分の子どもが乗っている。
試合後、メトロの駅に向かう道は、青と白の川だった。誰かがクラブの歌を歌い始めて、それが駅のホームまで続いた。列車の中でも続いた。トリンダーデ駅で降りたときも、まだ続いていた。
熱狂の正体
この夏に観た8試合の中で、一番の熱狂はここだった。
理由を考えてみた。
一つは、相手がベンフィカだということ。ポルトの人たちにとって、ベンフィカは「首都のクラブ」で、「お金のクラブ」で、「南のクラブ」だ。この対抗心は、サッカーの枠を超えている。
もう一つは、スタジアムの構造。ドラゴンはスタンドがピッチに近く、屋根が音を跳ね返す。49,560人の声が、そのまま自分の体に返ってくる。
そして、開幕7連勝という状況。「supremacia」という言葉は、ただの挑発ではなく、事実に裏打ちされていた。
熱狂には条件がある。ライバル、構造、そして根拠。この三つがそろった夜に、僕は居合わせた。
そしてもう一つ。こういう試合では、アウェイ席の近くで乱闘騒ぎが起きるのは当たり前で、僕も実際にこの目で見た。ポルトでベンフィカやスポルティングのシャツを着て歩いたら、本当に囲まれて「それを脱げ」と言われる。これは冗談ではなく、ポルトガル人の友人から直接聞いた話だ。この日のベンフィカのサポーターも、たぶんジャケットで隠してスタジアムまで来て、アウェイ席に入ってからやっとユニフォームに着替えていたのだと思う。この日のアウェイのサポーター約2,500人は、ボンジョイアの駐車場から警察の護衛つきで集団で入場している。1月のカップ戦のクラシコでは、アウェイ席に入るベンフィカのサポーターが濡れた床で靴を脱がされて、ベンフィカが「屈辱が目的だ」と協会に正式抗議した。ホームのスタンドで相手のゴールを祝ったらどうなるかは、この日、僕の目の前で起きたとおりだ。
日本にいた頃、僕は「サッカーは文化だ」という言葉を、いい意味でしか使っていなかった。ヨーロッパに住んでみると、文化というのはもっと生々しい。街の名前を背負って、隣の街を本気で嫌い、勝った翌日には会社でも学校でも市場でもその話しかしない。街の経済も動く。クラブが1部にいるかどうか、チャンピオンズリーグに出るかどうかで、ホテルの稼働率も、バルの売り上げも、スポンサーの看板も変わる。この夏に観たポルティマンでは、クラブが破産しかけている。バレンシアでは、オーナーへの怒りで街が疲れている。
本当に、生活の中にフットボールがある。それを一番濃い形で観られるのが、ポルトのクラシコだった。
この夜、僕はポルトのファンになった
正直に書く。この夜を境に、僕はFCポルトのファンになった。
以前、スポルティングの試合も観に行っている。この夏のアルガルヴェの親善試合だけではなく、守田英正がスポルティングにいた頃、リスボンのエスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデまで足を運んで、緑と白のホームの試合をちゃんと観ている。緑と白のスタンドも好きだった。でも、ドラゴンの炎と、1893の横断幕と、隣の男性に抱きしめられて3人で跳ねたあの瞬間は、別格だった。
それで10月、FCポルトのソシオ(会員)になった。海外・遠隔会員(ポルトから150km以上に住む人向けの「Correspondente」)という枠があって、年会費は36ユーロ。申し込んだあと「住所証明を送ってください」と言われて、携帯会社の請求書を送ったら、翌日「登録完了、カードを郵送します」。いまポルトのソシオは18万7千人を超えている。その一人が、オリャオンに住む日本人になった。
ソシオになると、チケットの先行購入ができて、ホーム戦が割引になって、ストアも10%引き。クラシコの一般枠が消えたあとでも席が残っている。「いつもいい席で観たい」と思ったら、答えはこれしかなかった。
ポルトの街
ポルトの歴史地区は1996年に世界遺産に登録された。ドン・ルイス1世橋(1886年開通、テオフィル・セイリグ設計、アーチ172m)を渡った対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアには、ポートワインのセラーが並ぶ。ドウロ川上流のワイン産地は1756年に世界で初めて法的に区画された。
名物はフランセジーニャ。パン、肉、チーズ、トマトとビールのソース。1953年にボンジャルディン通りの「ア・レガレイラ」で生まれた。
試合前は、スタジアムから離れて、ボリャオン市場の近くの「カフェ・サンティアゴ」でフランセジーニャ。ソースが辛くて、ビールが進む。1人前で腹がいっぱいになる。試合後は、リベイラの川沿いで、ポートワインのトニックを1杯。日曜の深夜0時、ドン・ルイス1世橋の下で、まだ誰かが歌っていた。
このスタジアムのために、引っ越してもいい
ドラゴンは、住宅街の中にある。メトロの駅を出ると、普通のアパートと、普通のカフェと、普通のスーパーがあって、その先に突然スタジアムが建っている。旧スタジアムの跡地には1,100戸の住宅が建設中で、つまり「スタジアムの隣に住む」という選択肢が、この街には本当にある。
ポルトの街そのものも、めちゃくちゃ綺麗だ。ドウロ川、ドン・ルイス1世橋、リベイラの色とりどりの家、対岸のポートワインのセラー。世界遺産の旧市街から、メトロで15分でドラゴンに着く。
試合が終わって、青と白の川に流されながらメトロの駅へ歩いているとき、本気で思った。このスタジアムに通うために、ポルトに引っ越してもいい。
僕は場所の自由を手に入れるために、いろいろなことをやってきた。その自由の使い道が、「好きなスタジアムの近くに住む」でもいい。そう思えたことが、この夜の一番の収穫だったかもしれない。
旅のメモ
- アクセス:メトロ「エスタディオ・ド・ドラゴン」駅。A・B・E線の終点で、F線も止まる。空港からE線で直通。2004年6月5日開業。
- チケット:非会員は bilhetes.fcporto.pt でアカウント登録のうえ購入。「アクセスカード」をスマートフォンのウォレットに入れて、ゲートでスキャンする方式。クラシコは会員優先で、一般枠は少ない。
- 博物館:「ムゼウ・ド・FCポルト by BMG」は2013年開館。博物館+スタジアムツアーは大人20ユーロ。試合日と欧州戦の前日はツアー休止。
- 注意:南スタンド上段はウルトラスの区域。落ち着いて観たいなら東西のスタンドを。
📸 この日の写真と動画













🏙️ ポルトという街






